疲れた魂は、

疲れた魂は、自然の音に耳をかたむけて一刻の憩いをもとめる。
 
 

 

 

むろん、それは音だけではない。
 
 

 

 

その音が喚起する、果てしなくひろがる自然の姿―――――――人間の日常の営みから隔絶した自然の世界に、安らぎをおぼえるのだ。
 
 

 

 

ただ、孤独をもとめているのではない。
 
 

 

 

孤独なら、都会の雑踏の中にもあるだろう。
 
 

 

 

むしろ雑踏の中でこそ、それはいっそう深いかもしれない。
 
 

 

 

だが、都会の孤独には、やさしさはない。
 
 

 

 

それは闘いつづけなければならない者の、索漠たる疲労感であり、愛への飢渇感であることが多い。
 
 

 

 

比喩的に言えば、たいていの人が「岸辺を打つ水の音」に懐かしさをおぼえ、この音を聞きたがっているのではないか。
 
 

 

 

それは、人の力を超えた世界に寄せる思いに他ならない。
 
 

 

 

そして、そういう思いがわかる者同士でこそ、友情も成り立つのだ。
 
 

 

 

そんなことを考えていたら人生の競争に負けてしまう、などとしか考えられない人は、語るに足らない。
 
 

 

 

どんなに現実的で負けず嫌いに見える人でも、心の奥にはこういう思いがひそんでいるはずなのだ。
 
 

 

 

ただ、表に出さないだけのことで。
 
 

 

 

その思いにふれてはじめて、愛情も湧くのである。
 
 

 

 

それに思いいたれば、争いもなくなる。
 
 

 

 

自然に寄せる思いは、人と人の心を結びつけてくれるのだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

梅里

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