Speak Softly, Love

言葉を気にする精神構造というものが、一般的にどのように形成されるものなのかは知らないが、私の場合は母親の影響が大きかったように思う。

 

 

 

いわゆる専業主婦であり特段、職業、学問として専門家であった訳ではないが、日本語に対して実にハッキリとした好みを持っていた。

 

 

 

たとえば「女」で済むところを「女性」というのを好まない。

 

 

 

「どうして近頃は『幸せをつかむ』という言い方をするのかねぇ。景品のつかみ取りじゃあるまいし!」とも言っていた。

 

 

 

中学2年の時の英語の先生がきれいだったので、当時その授業だけは熱心に耳を傾けていた。

 

 

 

教員1年目で確か津田塾出身と聞いた。

 

 

 

ある日、「受動態」の授業の時に、何気ない口調でこう付け加えたのである。

 

 

 

「そう言えば日本語では自動詞でも受身に使われることがあるのですね。『親に死なれる』とか、『前に立たれる』とか、日本語って面白いですね。」

 

 

 

その時の新鮮な驚きを40年以上経った今も忘れない。

 

 

 

自分自身の中でいつの頃からか『美学的基準に合わない言葉は原則として使わない。』という、ある意味では窮屈な考え方を持ち始めた。

 

 

 

ひところ流行した「みたいなもの」などという責任のがれみたいな言い方は気にくわない。

 

 

 

政治家やテレビタレントなどがよく口にする「とりあえず」はあとで本格的にやるつもりはないのに、その場を切り抜けるための方策として言っているのにすぎないことが多い。

 

 

 

嫌いな言葉ではないが、いやな使われ方をしているのが気になる。

 

 

 

どんな言葉を使うかは趣味の問題であって、個人の勝手だと言われればそれまでだが、鋭い言語感覚を持った人との舌戦はリズミカルな緊張感と満足感を与えてくれる。

 

 

 

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